何かが動く気配で目が覚めた。
薄く瞼を上げれば、白い天井がぼやけて見える。
右に首を回すと散らばった蜜色の髪が目に入った。動いたのはどうやらこいつらしい。
無造作に床に放り出された2人分の寝間着。俺もこいつも、下着すら着ていない。
もうすぐ冬だってのにかぶっているのは毛布1枚。それでも暖かいのは昨夜激しく動いたからか、こいつの体温故か。
まどろみに浸ったままの白い肌に幾度か口接けを落とす。回していた腕をそっと離し、寝台から起き上がった。
時計の針は長針が真上、短針が6を指している。そろそろ支度をする時間だ。
いつもはもっと遅くてもいいんだが……今日は授業の準備にかなり掛かりそうだから、早めに行くことにしていた。
寝間着を洗濯機に放り込み、真新しいシャツに袖を通す。いつもの運動着に着替えたところで、寝台から声が聞こえた。
「黒たん……?もう、そんな時間?」
どうやら起こしてしまったらしい。寝台の側へそっと寄って、まだ眠気が拭えていない顔を覗き込んだ。
「今6時だ。まだ腰動かねぇだろ。おまえは寝とけ」
昨夜の行為を思い出して、少しばかり気まずくなる。こいつは何度も降参の声を上げたのに、構わず抱き続けてしまった。
だがな……止めろと言われると、やりたくなるもんだろ?
言い訳めいているが真実だから仕方がない。
それはさておき。
「朝飯作っとく。7時には起きろよ」
柔らかい髪に指を絡ませ、しばらくしてほどく。
さて朝飯は何にしようか。
俺が作れる料理なんざたかが知れてるが、それでも少しは迷う。
……と。
巡り始めた思考はすぐに止められた。
上着の裾が軽く引っ張られる。振り返ると細い腕が毛布からはみ出し、俺を引き止めていた。
「寒いよ……」
至極当たり前な台詞だった。そりゃあ一糸纏わぬ姿でかぶっているのは毛布1枚、寒くないわけがない。
「掛け布団持って来てやるから、待ってろ」
しかし離される気配はない。訝しんで声を掛けると、小さな返事が返ってくる。
「掛け布団より、湯たんぽの方がいい……」
湯たんぽ?
そんなモン、あっただろうか。
つうか……ある家の方が珍しいんじゃねぇか、今時。
分からねぇ。何が要るってんだ?
声は続ける。
「黒りぃ、湯たんぽになってー……」
はぁ?
一瞬、頭の中を疑問符が支配する。だがすぐに霧は晴れた。
つまり……
「添い寝しろってか」
「うん……ダメ?」
細く開いた、冬天と同じ色の瞳。霞のように頼りなく揺れて、力は無いのに俺に迫る。
「……ッ」
丁寧にその手を取って、毛布の中に戻す。それから部屋の隅に飛んで行き、掛け布団を2、3枚引っ掴んだ。
「……悪い。今日は早出しなきゃならねぇんだ」
毛布の上に掛け布団を重ねて寝台から離れた。そのまま部屋を出る。後ろ手に扉を閉めた。
……本当ならすぐにでも毛布に潜り込んで、細い体躯を抱き締めたかった。
そうして昨夜の余韻に満たされたかった。
正面の時計を見上げる。長針は3を示していた。
手早く朝飯を用意し、かき込むようにして平らげ、1人分残った料理が冷えないように新聞紙を掛ける。
黒のスニーカーを履いて、1人きりで家をあとにした。
「……済まねぇ」
らしくもない独白は白い吐息に混じって、寒空へと消えた。
「んぅー……」
軽く伸びをして毛布をかぶり直し、首を動かして目覚まし時計を視界に入れる。時刻は7時15分。そろそろ起きないと、学校に遅刻してしまう。
ゆっくり起き上がると、剥き出しの肌にひやりとした空気が触れた。そういえば何も着ていなかったなぁ、と今更気づく。
昨日の夜は、久しぶりに黒様に抱かれて。もう無理って言ってもなかなか離してくれなくて。そういう黒ぷいを見たのはやっぱり久々だったから、ちょっと嬉しかったけど。
オレの体力が無さ過ぎるのか黒たんが絶倫なのか、翌朝の行動にここまで差がついてしまうのは少し悔しい。
ベッドの半分は既に空で、オレ以外に人の気配は無い。おぼろげな記憶を頼れば、黒るんは1時間ほど前にここを出てしまっていた。
「授業の準備かなぁ……」
黒様先生は堀鍔学園名物教師の中でも真面目なほうだから、そういう点で抜かりは無い。
「でもねぇー」
あれだけ抱いてさんざん人を鳴かせておいて……朝になったら1人でさっさと仕事行っちゃうのはナシだと思うんですけどー。
皮肉を並べても、返ってくる怒鳴り声はない。窓越しに鳥の鳴き声が虚しく聞こえた。
「……ご飯食べなきゃ」
束の間の寒さに体を震わせながらハイネックのセーターを着る。買ったばかりのそれはかなり暖かかったけど、やっぱりどこか物足りなかった。
冷めてしまっていた朝ご飯をレンジで温めて口に入れる。湯気が立つ黒様お手製のお味噌汁。できたてを食べたかったけど。
『朝から元気だねぇー黒ぽん』
『コーヒーどうぞー。お砂糖いる?』
『今日雨だってさ。外で体育できないねぇ』
いつもの朝のやりとりが無い、静かな食卓。
胸の中に落ちていく独り言を眺めながら、冷水で食器を洗った。
戸締まりをして家を後にする。木枯らしが通り抜けて、白衣や髪をなぶっていった。ふざけ半分に抱きつく腕も無くて、行き場のない指先は白衣のポケットに突っ込まれる。
君がいない朝がこんなにも寂しいなんて、思ってもなかった。
抜け落ちたような空虚感が胸の奥底に刺さって、鋭く重い痛みが走る。
布団より、セーターより、味噌汁より。
もっと別のぬくもりが欲しい。
「寒い……」
消えそうな声と白い息が宙に散らばった。
手のひらを擦り合わせ、吐息で温める。北風に思わず瞑った目を開くと、冬枯れの桜の木が見えた。その奥に、右へと折れる曲がり角。
いつもなら曲がった先の大通りに出るまでは、黒様が手を繋いでいてくれるのに。
「寒いよぅ、黒たん……」
冷たい手のひらで首を包む。放出される熱がそのまま伝わって、少しずつ温かくなる。
でも体の芯は――胸の底は、冷え切ったままだ。
少し俯いて、うなじに手の甲をあてた。
ドンッ
「うわっ」
突然前から来た衝撃に体を支えきれず、尻餅をつく。
反射的に閉じた目を開けると、黒いスニーカーが視界に映った。
どことなく、見覚えがある。
確か家の玄関に、オレの靴の隣に、こんなスニーカーがあったような……。
「す、済みません!大丈夫ですか!?」
頭上から降ってきたのは少年のような声。
スニーカーに縫い付けられていた視線を引き剥がす。不安げにオレを見下ろしていたのは、スーツ姿の若い男の人だった。
「あ、平気ですー。済みません、よそ見しててー」
いかにも新人社員といった風貌の男の人はペコペコと謝って、駆け足で去っていった。
……黒いスニーカー。
きっと、見間違いだったんだ。
バカなオレ。いくら心の中がぐちゃぐちゃだからって、錯覚までするなんて。
……早く、学校に行こう。
落ちたカバンを拾おうと、アスファルトにかがみ込む。
カバンに青白い指先がかかるのと同時に――
大きな掌が俺の手を掴んだ。
びっくりして顔を上げる。
そこにあったのは。
ずっと求めていた、愛しい人の顔。
「黒、さま……?」
また錯覚?
オレ、今度こそオカシくなっちゃったの?
「……ギリギリ間に合ったな」
固まってるオレをほどく、低い声。
「……ね。ホントに、黒様だよね?」
「はぁ?何言ってやがる。他の誰だってんだ」
ひそめられる眉に、形を微妙に変える眉間の皺。訝しむ紅の瞳。じんじんと熱を放つ手のひら。
本当に、黒様だ――…。
「でも……どうして」
「時間割変更で、体育が午後になってな。……理事長の奴、無駄骨折らせやがっ」
話が終わるのも待ちきれなくて、黒様に抱きついた。
――あったかい。
本当に欲しかったぬくもり。
「……おはよう、黒たん」
朝の挨拶。
応える代わりに、黒様は触れるだけのキスをくれた。
「行くぞ。遅刻して理事長に詮索されるのだけは勘弁だからな」
「……そうだね」
ついつい笑みがこぼれる。きっと見た目はいつもの笑顔と変わらないけど。
嬉しくて仕方がないよ。
"いつも通り"の朝が、こんなに幸せだなんて。
角を曲がれば大通り。忙しなく歩く人達に、堀鍔学園の生徒の姿もちらほら見える。
時計を見ると8時前5分。ちょっと急がないと、ホントに遅刻しちゃうかもね。
時計をはめた腕を下ろすと、逆の手が唐突な温かさに包まれた。指の一本一本まで絡められて、言葉なんかよりも強く、伝わってくる。
オレもその手を握りかえした。
互いのぬくもりを共有して、伝えあって。
いつもと変わらない道を歩いていく。
いつもとは、ちょっと違ったキモチで。
「恋人繋ぎしてたんですって?朝から見せつけてくれるわねぇ、黒鋼先生にファイ先生v」
……その日の職員朝礼。どこから伝わったのか、結局侑子先生から散々からかわれちゃったのは――また別のお話。
- END -
久しぶりですねぇ堀鍔は。
冬ってことで湯たんぽなどいかがでしょうか。
冒頭は事後ですよ。気にしない方向性。
初出 2007.12.22.